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昭和42年03月29日 朝の御理解



 よく心は二つ身は一つと言ったような事を申しますね。心は二つ自分の心はあれもこれもと、千々に砕けるのだけれども。実際に体は一つしかないからいわば手のつけようがないと言ったような時にね。今の椛目の皆さんの場合そう言う様なものがあるのじゃなかろうかと思うんですね。もう十四五日後には春の御大祭、併せて落成式と。それももう内々祭りであるともう椛目の者ばっかりで奉仕をするのなら。
 何にも文句はないのだけれども。この度は親先生が御祭主であり、また手続き関係の教会の先生方だけではございますけれども。御祭に引き続いての落成式。それには信心の無いいわば業者の方違。それからまたはこの部落の方達も、お招きしたいと言うような訳ですから、あんまりお粗末なことも出来ん。内々祭りとか内々のことだけで済まされる。いわば、対外的なことも考えなければなりませんから。
 あぁでもなかろうか、こうでもなかろうかとこう。まぁ本当に咋日も昨夜遅うに秋永先生から電話を頂きましたんですけれども。記念品とか様々な打ち合わせがございましたけれど。とにかく先生電話じゃ出来やせんて、とにかく明日出て来て下さいとと言てまぁお話も致しました。今日来て頂くことになっておる訳でございます。えっ見えておるんですかまだでしょう。明日の朝参りましょうち言うておりましたけれど。
 本当に思いますとあれもこれもと、どうでしょうか皆さん。もしそれを思わないぐらいなら、どうにも出来ませんですね。何も出来ませんです。というて思うたからと言うて心を患うたからと言うて、仕方がございません。結局はお縋りをするよりほかない。そしてそれぞれ、持ち場立場においてですこう言うところだけは、私が責任を持ってと言ったような在り方になる以外にないのです。
 その段取りすらがまぁだこう出来ていないという感じでございますから。まぁ思いを千々に、その責任者の方達は、千々に砕いておられる訳でございます。咋日昨日と言うが、最近毎日、福岡の渡辺先生が日参しておられます。それ東京に息子さんおられますが。ある難儀は問題で電話が毎日のように掛かって参ります。恐らく夕べの夕方の汽車で、東京へ発っておられますと思うのですけど。
 東京に行かれることになりました。それも本当に大変な問題なんです。それが咋日の朝、こちらへお参りして見えられる電車の中で、ふっとこう眠られたらこのようなお知らせを頂かれた。今からわくど(蛙)の解剖があると誰かが言うておると言うのです。わくどというのは私の一番嫌いな奴です。ところがあなたもう大きなわくどがこう、白い腹を上にしてから寝かされとる訳ですね。
 それを今から解剖しなければならんと、言うてその居るところで目が覚めた。私はそれを聞かせて頂いてから、渡辺先生おかげ頂きますよて私は申しました。本当にお道の信心、私共が拝ませて頂いておる天地の親神様、金光大神とこう言うけれども、特にとりわけてです。椛目にご神縁を頂いておるいや合楽に御親縁を頂いておる人達の上には私の上に現れておられるところの神様の働きというものが。
 このようにして一人一人の上にです。その働きのあっておることを教えて下さりまたこうしたおかげを頂いていけよと言う働きを見せて下さっておる。それがお夢の中にでも、このような働きを受けておるのですから、有難い事ですねと言うて、まあ申しましたことです。これは椛目にいわゆる合楽にご縁を頂いておる者だけでなければ分からないことなんです。皆さんお解りになるでしょう。
 もう私は本当に信心させて頂いておる者の前には、怖いものはない。怖いと思いよったものは、私に力を与えて下さろうとする神様の御神意以外にはないのだと。このくらいなことはと、軽う思っておった様なことが、実は大変な怖い問題を引き起こすような結果になるのであって、私共がこれはどうしょうかこりゃ困ったねと言ったような問題こそです。私共がよくよ、その実体というものを見せて頂きますとです。
 それは怖いものでなかならければ、困った問題でもないのであって、ただあるものは神様の神愛、いわゆる親の思い以外には何もないのである。だけれども私共が様々な、目の前の問題に事柄に幻惑されます。迷う迷うてしもうてです。そしてその表面だけを見て困ったことだ怖いことだという事になるのでございます。その困ったことだとこう大変なことだと感じるところにですたい。
 その心が私共の心を暗くしたりまたは、上がってしまうと言った様な事を申しますね。そしてその、本当のおかげを頂ききらんという様な事になってはつまらんのでございますけれども。渡辺先生の上に神様が現れておられるところのお知らせの中から思いましてもです、これからいわゆる、怖いものの実態をです、解剖してよくよく追求してみるということなんです。
 私も確かに自分で思うんです。おかげを頂いて段々どの様な事があってもです、それこそ教祖の神様が信心する者は、これから先どの様な事が起こって来ても、驚いてはならんぞとこう仰る。その驚かんですむだけのものを頂いておるように思うので御座いますけれども。ここに一ついわゆる「わくど」だけは私が怖いとです。もう咄嗟にでも出て来たらもう本当に、私はおおげさのようですけれども。
 あの椛目の時代に小さい庭がございましたね。夏のことでした。ちょっと上を見てましたら真正面に、このくらいばっかりのまがいもないわくどの子です。私の方を向いてこうやって座る、私はどういうふうにして声を上げたか、どうして引っくり返ったか自分で分からんのです。どんな風にして飛びのいたか分からん。そしたらお広前に引っくり返ってひゃぁと私が悲鳴を上げて裏さん逃げたら。
 皆んながさぁどうしましたかち言うてから、ほんならわくどが居る。わぁ先生はち言うてから皆が笑いますけれども。あれは私のもう咄嗟の場合のあれがその、まぁいわば醜態で御座いましたんですけれどですね。それからというて一つ腹を決めてですね。こうあの皆さん、昔山本の近藤さんと言う所が、大きな泉水が空になっとりましたね。その泉水の上を虫の様にしてそれこそ一尺、真四角ぐらいの大きな大わくどがおりましたよ。
 あそこに行くと私はお縁に座って、じっとそのわくどを眺めたんです。もうけれども段々段々こう眺めさせて頂きよりますとですね。なかなかこう禅身たっぷりのその目元どん、可愛いらしゅうごたるどうして私は、これをこんなに怖いのじゃろうかと思うぐらいにですね。じっと心落ちつけて見ると、そのどうも無いのですけれども。とっさに出て来られたらもう飛び上がって私は、びっくりするほどに怖いというか気持ち悪いというか、とにかく不思議なもんですね。
 実際皆さんがそうでしょうが。怖いことは何にもないでしょうが。怖いものはないのです。あれは噛みつくわけでもない。で私共にそれを仕掛かってくる訳でもないのですけれどもです。私がやはりわくどが怖いというのは、怖くもないものを怖がっておるということなんです。さぁどうしょうか困ったことだという事はです、よくよくその実態を解剖してみよということなんです。
 私共がさぁ奉斎式に引き続いてそしてまだ、ここのお広前であれこれ慣れもしないなかに、先日も婦人会でほんにあん時に会長さんから、先生今度は御大祭の事についてのご準備落成式のことについての、私共はどういう打ち合わせをしたらいいでしょうかと、相談を受けたんですけれども。あんまり沢山あるものだからどこから話して下さい、どこからどういう風にして下さいと、私は、言えなかったんです。
 まあ信心が先ですけん信心の共励でも先にして下さいとまあ言うたもんの。後から考えてみるとほんにあのことも相談して貰うとかにゃならじゃった。この事も話を決めて貰っとかねばならなかったという事は沢山あったんです。余りにもあり過ぎるんです。ですから私共はそれこそ自分の心は二つ身は一つと。心は二つどころじゃありません。それこそあれもこれもと千々に砕けるほどに様々な問題がございますけれどもです。
 結局私一人しかいないのですから。今さらに一人しかいないのですから。あれも是もと思うてもあれも是もが手が付けられる筈がないのですから。そこんところをよくよく焦点をおいてです、私共のここが持ち場である立場であるというところを、一つ早く何時ですか、今日か明日か総代会がございますそうですが、そこんところを一つはっきりそこの線を打ち出して、それぞれの持ち場のところへ。
 それをこう持っていかなければならない。そこに総代さん方の今御用があると思うのでございますがですね。そしてほんなら私がその、私もそう思う心を千々に砕かして頂いておるという事がですまた例えて言うなら、渡辺先生言うなら、さぁ東京に起きておるところのその大変な問題という問題をです、じっとその見極めてみるとですどういう所から、解剖してみるとどういう所から。
 そういう困った事になっておるのか、どうしてそういう一つの難儀になっておるのか。どうしてそれが心を千々に砕かなければならないような事になっておるのかということをです。一つ詮索してみるとですね結局は。我情我欲のためですね。我情というのは自分の思い。はぁその泉尾先生方にも、本当に不行き届きなことがあっちゃならん。また部落の方違の信心のない方違のためには。
 出来るだけ行き届かせて頂いてあぁもこうもと、そういうああもしたい。こうもしたいと言うその思いがですいけんのです。思いがそこに難儀を形成するのです。難儀を作り上げてしまうのです。同時に我欲なんです。例えば渡辺先生の問題で言うならばです。こういうことなったらどれだけの金が要るやら分からん。どういうことになるだろうかと思うようなことがです。
 そんなことなんか幾らかかろうが、問題じゃない。誰がなんと思おうが人から悪口を言われようが非難をされようがそんなことは問題じゃない。ただ真心だけでそのことに接すれば良いのだと。少しでも良く見せよう。少しでも喜んで貰おうというその我情その思いが、心を千々に砕かなければならんことになってくるのです。ですから私共が只今申します様に自分の体は一つであり、心はあれもこれもと思いますが。
 あれもこれも出来んのですから、まづその中心であるところの、心というものにしっかり取り組ませて頂いて。その事の実態をです追及してです。その怖いと思っておるそのわくどを一遍解剖してみるとです。私はその事は心を砕く事もいらなければ難儀な問題でもなからなければ、困ったという問題でもないと言う事を分からせて貰います。私共の心の成長が無い為に、その事が大変な問題のように見えるだけの事なんです。
 これがどうでしょう。勿体ない話ですけれども三代金光様がです。あれだけのご造営がなされた時に様々な儀式もございました、行事もございましたでしょう。けれども金光様がなぁにもお広前に出て来てから、指図なさった訳でもない。さあああしなさいこうしなさらなければと言われたこともない。それどころかお祭りが済んだらそのままずっと、御結界にお着きになるだけのことであった。
 そして何事もない事の様に「はいはい」と言うて、お取次ぎをなさっただけであった。素晴らしい事だと思うですね。金光様の心の中にはああもありたい、ああも見せようこうも有りたい、と言ったようなものは、さらさらおありにならなかった訳なんですね。いわゆる我情もおありにならなかった。我欲もおありにならなかったというほどにです、金光様のお心が成長という言葉よりか。
 いわゆる完壁な域に達しておられたということを感じん訳には参りません。私共もその完壁を目指しておる、その最中かでございますから。これは私が小さい時です、私はその小さい時に怖いものがもう一つあった。というのはその昔はあの素焼きの火箱というのがございましたよね。もう田舎に参りますと冬は必ず押し入れの中に入れると危ないから、座敷の隅の方に必ず置いてあった。
 こう丸い形をした、素焼きの火箱なんです。穴が幾つもほげてるんです、私が婆に連れられてから近所へ遊びに参りますときに、もう何時も家に入る前に部屋を一遍ずらっとこう見といてですね。隅の方にコタツどんあるならば、絶対中に入らんのです。そしてあすこに目がおるち言うて私が。かすかに覚えておるですね。この人ばっかりはもうあぁた、ちょいとあんコタツば直して下さい。
 この人が入らんと言いよるけんち、婆が言いよりました。もう大抵物心つくまでやっぱ、怖かったんですね。その火箱のことを目が沢山あるから「目」ちゅう訳です。目があすこにおるち言う訳ですね。それであのお正月なんか餅つきますでしょう。そしてもう一杯並べますたいね。そすと私がちょうどその餅に、いっぱい穴をあけて歩くらしいですもん。それで父がそこん餅のまん中にあの。
 火箱ば置いとけち言うちから言いよったそうです。火箱があると私が寄りつがん訳なんですね。考えて見てこ覧なさい。とてもとても本当に可笑しな話なんです。いかに火箱に目が沢山あったところでです。目をむいて出てくる訳ではないのですから。怖い事はないのですけれども、私がほんなら五つ、六つ頃までは、その目が怖かったということ。現在は怖いことないですよ。
 ですから結局怖いと思うたり、難儀と感じておるのはです。結局、私共の心の成長がないからだと言うことが分かります。怖いことではない。ですから「先生どうしましょうか。難儀な問題が起こりました。先生どうしましょうか。」と言うて皆さんがやって参って見える時にです。私から見るとそれは一つも難儀なことじゃないのです。いやむしろお礼を申しあげんならん事です。
 それで私が「もう、先生、どうしましょうか」と言うて、涙流しておられる時でも、私の心の中では、手を叩いて喜んでおる様な場合が、幾らもあるのですよ。それこそ、あんたの信心の成長を神様が求めておられる事なのですから。ここを間違いなく受けていきゃあ、日ごろの信心を目指していきゃあ、これがおかげにもなりゃ、力にもなるんだと。困ったことじゃないんですよと、私が言えれる訳なんです。
 それは、私がお取り次ぎをさして頂く。私と、お取り次ぎを願われる皆さんの、心の成長の程度が違うからだと、私は思うんです。「先生、腹が立って、腹が立って」私から考えると、腹が立ったどころか、かえって、相手の人が祈ってやらなおれんごたる問題を、腹が立ってと言うてから、顔色変えてるんですからね。心の成長の相違があるからですよ。そこで結局私共の信心の成長がまず。
 なされなければならないという事と同時に、その難儀だと困ったと心を千々に砕く様な場合であっても、さあ手が付けられないような問題であっても。よくよくそれを解剖し、実態を追求してみるとです。そこにあるものは、我情であり我欲であるいうこと。その我情であり我欲であるということに、気づかして頂いてはぁそうたい成るごとしか成らんけんでと言う放任的な問題ではなくて。
 ただ神様におすがりするより他にないのだから。そして私があぁありたいこうありたいという我惰我欲を捨て切って、そこに神様に一心に向かう時にです。金光様はただどのような大きな行事をなさる時でも、御結界をお離しにならなかった。もうお祭りがすんだら御結界についておられた。そのことは何にもない事のようにして、御神前奉仕があっておった。金光様のああいうご心境をですね、私共も神習わして頂いて、そういうお心の内を、私共の信心の上にも、頂かせて頂こうと願う心。
 それは、私共は一生逆立ちしても出来はしますまいけれども。それを願うところに、心の成長が約束されると、私は思うのです。そして、このぐらいのことには、驚かんですむ、このぐらいのことには慌てんですむと言う。その確信が、だんだん出来て行くところの喜び、楽しみというものをです。いよいよ、身につけて行きたいと思うのです。いよいよ、13日からご本部参拝でございますから、御本部参拝前までには、12日から出発でございますから、11日までには。
 あらゆる意味合いに於いての、万端の用意がなされておかなければなりません。してみると10日そこそこしかないことになります。さあと言うて間に合わん様なことが沢山ございます。女の方違は例えば陶器類ならお茶碗類ならお茶碗類、座布団なら座布団に、アイロンの準備やらも、もう早うなさらなければさあという間に、間に合わんのです。ですからそこには、婦人なら婦人の持ち場立場と言うものがございますから、その事をより    (途中切れ)